あなたの夢で眠りたい

夢見た未来はまだ来ないけどその日を迎えたい、きみと一緒に。

『愛の酷薄』についてのあれこれ


前回グレショーの記事を上げたときに、『愛の酷薄』だけ別記事に、と書いたまますこし時間が空いてしまった。

※前回記事はこちら。
mellowmelon.hatenadiary.com


その間に『大暴力』は第4話の放送が終わってしまったのであるが、そのおかげでまた新たな視点も得られたので良しとする。

なぜか6,000文字近くにまでなってしまったのだが、お付き合いいただけたらうれしい。


なお、わたしは榊を泣かせた『優しいひと』の公野をまったく許せないでいる(私的感情)。



『愛の酷薄』


この配役についても、正門と末澤の関係性がうんぬんではなく、この役の性質に合うのがそれぞれ正門と末澤だったのだろうと見ている。
「想いが募りに募ってしまい、手紙にしたためて伝えそうな正門」と「相手の気持ちに気づきつつもそれとなくかわし続けてなお善意的に振る舞おうとしそうな末澤」というような。

※この記事を書いている途中で福谷さんのnoteが更新された。
「配役に関しては稽古スケジュールの兼ね合いを鑑みた部分が大きい」という旨の記述があり特別な意図はなかったと思われるが、わたしの感想として上記も残しておく。


なお、上述だけ見ると、告白する側よりも振った側の方が暴力性を孕んでいると捉えられそうだが、『この愛は警察に届けます』でも描かれていたように「一方的な好意」も暴力であることに違いはない。

つまりこの『愛の酷薄』では、双方が暴力をはたらいている図を描いているのである。



このシークエンスに関しては記述しておきたいことが二点ある。

まずは福谷さんのnoteより。

稽古の過程。
正門さんが「抱きたいです!」と宣言するところで、末澤さんに「ウェーイ」と言って欲しい(台本にはない)とオーダーしたところ、すごく悩んでいました。

僕としては、「気まずさの解消が目的。相手をフォローするつもりで、ウェーイと言って欲しい」と伝えましたが、末澤さんは腹落ちしない様子で。
「はやし立てている、おちょくっているようにしか思えない」と反論を受けました。

優しい人だなぁ…と思いましたね。
あの場、あの瞬間にウェーイというのは、末澤的価値観ではナシだったんでしょう。


引用元:【グレショー】3回目の放送の感想 |劇作家の苛立ち、そして少女としての岡添結愛。|note



このときの末澤の不承知の心理について考えを巡らせる。


彼は「高本から榊へ性的好意があると打ち明けられても」茶化したりからかったりするものではない、と考えていたのか。

それとも「自分が恋愛的・肉体的な好意を抱いていない相手からそれを打ち明けられても」茶化したりせずきちんと向き合うべきだと考えていたのか。

つまり、「相手が高本だから」なのか、「見ず知らずの相手だとしても」なのか。
それによって末澤的価値観と末澤的解釈への理解に差が出てくる。


前者の可能性が高いと思いつつも後者の可能性が浮かんだのは、榊遊詩も末澤誠也も「アイドル」だからである。


アイドルという職業は非常に特殊だ。

彼らは自分自身のルックスはもちろん、歌やダンス、演技などの技術や知力、人間性、さらには人間関係でさえも、自分の身から削り取って「どうぞ愛してください」と商品として提供する。

彼らは愛されることが仕事であり、だから彼らは愛されることに長けている。


つまるところ、もしかすると榊⇄高本といったような、すでに関係性が構築されている相手以外からでも、突然暴力的に告白されたことがある(あった)のかもしれない。

彼の性格上、そういう相手であっても真摯に向き合おうとするのではないだろうか。


もちろん、街中で遭遇したオタクに(どんなに真剣であっても)「誠也くんを抱きたいです(あるいは抱かれたいです)」などと言われるのは暴力以外の何物でもないし、そんな暴力は受けなくて良い。というか受けてはいけない。
ついでに言えば、それがもし仕事場や自宅付近だったりなどした日には、それはもう暴力でもなんでもなく、ただの犯罪である。

いくら愛されることが仕事のアイドルであっても、我々が彼らに愛を叫んで良いのは仕事の場においてのみなのであって、それらも度が過ぎないよう節度を持って愛さなければならない。


話が逸れた。

つまり仮定の話として、そういう面識のない人間であっても彼は茶化したり囃し立てたりしないのではないか、ということだ。


これについては今後おそらく答えを提示されることはないし、末澤自身どこまで意識してそう言ったかもわからないが、一つの考察のための要素として取り上げた。



そして末澤は最終的に「ウェーイ」と言ったのだが、彼はもし自分が納得していなければそれを言うことはなかっただろう。

noteにはこう続きがある。

でも、言ってもらいました。
無理やり言ってもらったわけではなく、「どうしたらウェーイと言えるか。ウェーイという言葉を発する心を組み立てられるか」というところを、二人で模索しましたね。

結果ですけども、末澤さんがフォローのつもりでウェーイと言ったのか、おちょくるつもりで言ったのか、気まずさの解消が相手のためなのか・自分のためなのか、そこはわからないです。演じた末澤さんですら自覚していないかもしれません。
そもそも我々人類は、どういうつもりでそれを言ったのかなんて、自覚できていることのほうが珍しいですからね。理由なんていつだって後付けだと思います。

でも、少なくとも末澤さんはウェーイと言いました。
それによって、あの時間の見え方がたくさん分岐して、面白いシーンになったと思います。


福谷さんとのディスカッションでその心をどう持っていったのか。心の微妙なその動きを知りたい、と思ったし、わたしは正門によってもウェーイを発することができたのではないかと考えている。


「榊を抱きたいです!」

この台詞はもう、好意という偽善の顔をした暴力以外の何ものでもないと感じているのだが、正門演じる高本は一拍置いたあと、どこかほがらかな笑みを浮かべて高々とこうのたまった。

本家、匿名劇壇での『愛の酷薄』では、もっと迫真的で余裕のない表情、台詞回しだった。手紙を読み終えるまで緊張が一続きになっている。
しかしグレショーにおいては、この正門の表情により、一旦ふっと緊張が緩和されているように思えるのだ。

高本──ひいては正門のつくり出した柔和な空気感のおかげで、末澤の「ウェーイ」が引き出されたのではないかとも感じた。



もう一点、『愛の酷薄』における榊の暴力性が弱かったことについて。


先述のとおり、このシークエンスで描かれる暴力は二点。

「一方的に恋愛的・性愛的好意を押しつけること」と、「その好意に気づきつつもそれとなくかわし続け、振ってからも善意的に対応しようとする姿勢」だ。
前者は高本、後者は榊が孕む暴力性である。

比べるものではないとわかりつつ、敢えて指摘するが、本家に比べると榊の暴力性は弱かった。


たしかに、高本が「筆で書いた」と言うまでの榊はとても白々しく、傷つけたくないと必死で上面の言葉を並べ立てているのがわかる。
しかしその後の「見せて」「いや、筆ペンだから」のやり取りのあたりから、よそよそしい雰囲気は徐々に薄れていくのだ。

「気持ち悪くなんかないだろ」「寄越せよ」「なんで。俺に書いてくれたんじゃないの」「いる」「ほしい」といった台詞の語調は強くなる一方で、そこにもう軽薄さは見当たらない。
そもそもの榊(末澤)が持っている高圧的な態度が打ち消しているというだけでない。榊、あるいは末澤が本心から「手紙を欲しい」と思って迫っているためであろう。


匿名劇壇で演じられたものは、告白された側が「要らないものだと思っていつつも、受け取ったほうが体よく収まりそう」という内心が透けて見えていた。
だからこそ、ここのラリーでは強烈な暴力が何度も叩き込まれていて苦しい。

しかし、榊(末澤)の場合は「自分に向けて書いてくれた手紙だから、想いには応えられないが気持ちは受け取っておきたい」という感情であの手紙を要求したのではないか。


もしも、本来の演技の意図として必要ではないけど、今後の友人関係を続けていくためには受け取った方がいいだろうという、ある種打算的な考えを示唆するものが「正解」だったのであれば、榊、もしくは末澤の演技は不正解気味だったのかもしれない。


ところで、わたしがこの部分に関して「榊(末澤)」と表記しているのには理由がある。
この一連の演技が「末澤誠也が榊遊詩の意思を汲み取って演技した」のか「末澤誠也自身のみの解釈で演技した」のかがわからないためである。

どういうことか。

ややこしい話だが、『これはまだ本番ではない』以外のフラッシュフィクションでは、一応「末澤誠也演じる榊遊詩が舞台稽古をしている」という二重構造になっている。

しかしこれに関して福谷さんは、その部分は基本的に除外しているという。

僕がめざすのは、「まるで演じていないみたいな演技」です。
それを『これはまだ本番ではない』のシークエンスでめざしています。
が、一方で、それ以外の短編は、ある程度エンタメ性を持たせるというか、「リアリティのある演技」よりも、「見ていて興味深い演技・伝わる表現」を優先してディレクションしています。
その際、「それぞれの短編は、『これはまだ本番ではない』に登場する彼らが演じているのだ」という前提は、話がややこしくなりすぎるので除外しています。
俳優としても、さすがにそこまで考えて演じるのは階層が深すぎるというか、演技がただただ混乱していくので…。

引用元:【グレショー】4回目の放送の感想|劇作家の苛立ち、そして少女としての岡添結愛。|note


つまり、基本的には「榊遊詩」という人格フィルターを取り払ってそれぞれのシークエンスを観て良い、ということになるのだが、この『愛の酷薄』だけは個人的には別だと考えている。

なぜか。

それは『これはまだ本番ではない③』の冒頭で榊が「この芝居意味わからんくない?」「なんで『なんだよ、それ』とか言われなあかんの? だってラブレターもらって、それが欲しいって言ってるだけやん」と言っているからだ。

榊は台本の意図が汲み取りきれておらず、本心で高本に手紙がほしいと迫っている可能性があるのだ。

末澤はそれを踏まえ、敢えて「暴力性が弱まるような演技を榊にさせた」のではないか、というひとつの仮説を考えたのである。


しかし、この台詞からは榊が「表面的に手紙を欲しがっていることはわかっていても、高本の傷つく理由だけがわかっていない」可能性も読み取れる。

その場合ではもう一つの仮説が有力になろう。
末澤⇄正門の関係性から、本心で手紙がほしいと言っている説だ。

抱きたい、と言われたときに「ウェーイ」とは言えないという価値観を持っている末澤は、いつもひとに対して誠実だ。まっすぐに向き合い、本音で付き合おうとするひとである。
しかも、告白してきた相手が今まで男友だちとして関係を築いてきた人物ということであれば、なおのこと相手の気持ちには真摯に向かい合おうとするだろう。

そういった彼の価値観が無意識に発露してしまっており、あの暴力性が弱まってしまったとも考えられる。


いずれの場合も本来の意味での正解、不正解はないし、このどちらでもない可能性もある。
ただわたしはあの部分の演技に、末澤の人柄を見た、ということだ。



それにしても、このシークエンスに関してだけは特に演者自身の関係性や人柄に着目してしまった。

なぜだろう、と考えたとき、これが男性役同士であり、本来の演者たちと非常に近い設定・空気感だったためだと気づく。


わたしはあまり「これは男同士だからこう」とか「これはBLだからこそ」という視点で非ヘテロの恋愛作品が語られるのは好きではない。
同性愛を描いたものが一つのジャンル、コンテンツ化され、消費されているような風潮が当事者としてはあまり好ましく思えないのだ。同性間であれ異性間であれ、「恋愛」ということにおいては同等で、そこになにか区別をつけること自体に違和感を抱いている。

しかしこの『愛の酷薄』に関しては「男同士だから」と特筆せねばならない。この設定だったからこそ、あの(ジャニーズファンからすると)肌なじみがよい、絶妙な空気感になったのだと思う。


『愛の酷薄』だけではなく『プリンとバイオレンス』『この愛は警察に届けます』(もしかすると『銃撃』も)といった作品すべてに言えることだが、ホモフォビアを感じなくてよかったという感想を目にした。

それは彼らがジャニーズだからなのかもしれない。

幼少期、あるいは思春期という多感な時期から同世代の男の子たちと特殊な環境を共にしてきた彼らはおそらく、そういったものへのハードルの低い人が多い。

近年ジャニーズJr.において、メディアが顕著に行なっている「メンバー同士の関係性の切り売り」も拍車をかけている理由のひとつだろう。
今回はそれがノイズを取り除くために良く作用したと感じている。


福谷さんの今回の同性カップル / 異性カップル という分け方は「そこにどれだけのノイズが出るか」という視点で決められており、「男が女装すること」という避けられない視覚的ノイズに重きが置かれていた。
その考え方にわたしは安心もしたし、すとんと納得がいった。恋愛的感情に対してはフラットな視点だからこそ、「男同士だから意味がある」と書けたのだ。



さて気づけばもう木曜日。
明後日の深夜には新たな展開が待っていると思うと胸が弾む。

相変わらず解釈や考察と呼ぶには薄すぎる、腑に落ちない感想文になってしまったのだが、ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。