あなたの夢で眠りたい

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THE GREATEST SHOW-NEN 第12回公演の【大暴力】がとても良い

Aぇ! groupのレギュラー番組、THE GREATEST SHOW-NEN。第12回公演は匿名劇壇の福谷圭祐氏とコラボし、『大暴力』とのタイトルを冠した演目を放送している。

これが非常におもしろく、ついこのブログを書いてしまった。
いまはちょうど3週目が終わったところで、今後の展開も期待されるところである。

とにかくわたしが感銘を受けた箇所がいくつかあるので、それぞれ気の赴くままに綴ってゆく。



さてこの『大暴力』は、軸となるストーリーがありつつも、大枠としては「フラッシュフィクション」と呼ばれる超短編劇が連続している構成だ。

まずわたしはフラッシュフィクション一編一編における、世界観を構築する技術の巧妙さに驚いた。


フラッシュフィクション自体はそれぞれ独立した作品になっており、ある物語のワンシーンだけをくり抜いているような形だ。
一つの作品はおよそ2分〜3分といったところ。パッと目に飛び込んできた瞬間にはストーリーはすでに始まっている。

ここで重要になってくるのは、観客(視聴者)への的確かつ迅速な情報提示だ。
長編劇では、役同士の関係性や状況設定などが少しずつ明らかになってくることがほとんどだが、このフラッシュフィクションではそれを受け手に素早く汲み取ってもらう必要がある。


そこでまず最初のヒントとして、各シークエンスのタイトルを冒頭で読み上げ、モニターに映し出すという演出がある。


『この愛は警察に届けます』では、警察というワードに何か事件性のある「愛」が描かれるのだろう、という想像ができるし、『愛の酷薄』では「告白」とのダブルミーニングで告白シーンが来るのだろう(しかしそれも残酷で軽薄なものなのだろう)と準備することができるのだ。

もちろんこれは、観客側の経験値によってどこまで予測できるかは変わってくるだろう。
しかし、ユーモアを交えつつ、あまり深読みせずとも理解しやすいタイトルを視覚的・聴覚的に提示することで、その世界観にすっと入りやすくなることは間違いない。
そしてまた、この言葉選びも妙でおもしろい。

しかもこの「想像」がきちんと「正しい答え」の導入になっているから、ミスリードがないのも気持ちいいのだ。


ちなみに、『タイムマシンで来た二人』では、その情報を頭に入れておくことで、二人(今回で言えば末澤と小島)の行動や言葉、三人の服装の違いに、彼らは未来から来たのだろうと仮定を持って楽しむことができると感じた。



福谷さんによる、シーンを切り取る技術も巧みだ。

スポットライトが当たった瞬間に放たれる一発目の台詞。

もちろん、演者側が役のそれぞれにバックグラウンドを持ち、一連の流れを汲んだ上で発している台詞というのもある。
その技術もとても素晴らしく思うが、同時に、その言葉を選び取る福谷さんのセンスも光っていると思う。


たとえば、『プリンとバイオレンス』における「今日なにしてた?」では、一日の終わり(おそらく夕方〜夜)という時間設定と、親密な関係性の二人(同棲しているかも?)が昼間は別々のところにいて不干渉だった、という背景がすぐに汲み取れる。

※ちなみにグレショーでは「今日なにしてた?」は草間の台詞。その声質の柔らかさからも二人の親しげな雰囲気が滲みだしており、特に秀逸だったと感じる。



また『選りすぐりの孤独』では、『孤独』と提示されたタイトルのあとに、「二人一組になって」という絶望に近い台詞が繰り出される。

日本で義務教育を受けた人間の多くは想像できるのではないだろうか。これが恐らく教師の台詞で、いまは体育の授業か何かで、二人一組になってストレッチや競技、もしくは測定を行うシチュエーションだろうと。
そうして誰か一人はいつも組むことができず、仲間外れのような状態になるのだろうと。


ただし、ここでその絶望を感じるか否かは、学生生活をどう過ごしてきたかによって異なるだろう。

なお、わたしは「(最悪な台詞だな)」と思った前者の人間だ。
福谷さんのnoteによると、このシーンの稽古ではメンバーが和気あいあいとしてしまい、苦労したらしい。

すごく性格の悪い言い方ですけど、「(この人たち…こういう経験マジでなくて、感覚として一切持ってないモノなんじゃないかな…。余るのも、余らせるのも…)」と思いましたね。
たぶん余るような人間じゃないし、余りそうな人がいたら、なんの躊躇や思い入れもなくサッと声掛けできるような人間たちなんじゃないかなと。
4行しか台本がないので、みんなでエチュードっぽく、ワチャッとやらせると、ほんと光がスゴくて、僕が描こうとする影を見事に吹き飛ばすのでほんまウケましたわ。


引用元:【グレショー】2回目の放送の感想|劇作家の苛立ち、そして少女としての岡添結愛。|note



その姿が想像できてウケた。
まあ、そりゃそうだわな、天下のジャニーズに入れるような人たちだもんな。

だからもしかしたら、このシークエンスに居心地の悪さを感じない人もいるのかもしれない。
経験値の差異がものをいうのは、こういうところにも現れるのだなとハッとした記述だった。


そしてこの「孤独に選ばれまくった暴力」をこの形で表現できる福谷さんに脱帽。



他にも『大暴力』で描かれる世界は、どれも身近に潜む暴力ばかりだ。

それは「体の暴力パンチ」のような可視化された暴力だけでなく、無意識だったり、本人には悪気がなかったりもする。拮抗した圧力、内側からじわじわと迫り来るなんとも言えない恐怖。
そういう心理的ストレスみたいなものは、確かにすべて「暴力」なのだと気づかされる。

そしてそれを否定も肯定もせず、淡々と表現していく(今のところは)。

シーンを打ち切る、暗転のタイミングも絶妙だ。
引き際を心得ていて、この人たちはこれからどうなるんだろう、と考えてしまうようなところで切り離されてしまう。
そこがまた小気味よくてクセになる。


そんな、誰もが予見できて、身近にある暴力だからこそ、息をつめて見入ってしまう。そわそわと腰を浮かしてしまいそうな暴力の予感や予兆、不快感の演出が上手いのだ。

さらには舞台演劇だからこその表現トリックも隠されているようなので、そこも今後の楽しみのひとつである。




そういった作品の世界観のほか、配役(キャラクターの描き方)の上手さにも震撼した。
福谷さん的に書き表すなら「こっっわ。なんでそんなとこ見えてんの」だ。まじでこの人こわい。すごい。

※以下、フォーカスされてる面の特性上、悪口っぽく読めてしまうかもしれないので注意



比較的、各フラッシュフィクション上でキャラクターたちが演じている役柄は、メンバーのパブリックイメージに沿っていたり、これまでのグレショーの配役などから見ても分かりやすいものだと思う。

『プリンとバイオレンス』の草間/佐野のカップルでは、あの二人特有の柔らかい雰囲気を上手く醸しているし、『銃撃』の小島は裏表がなく、ちょっと粗野なところがある一面、『君の剥製』の福本は陽気でありながらもどこか粘質な病んだ精神(いわゆるメンヘラっぽさ)があるところを引き出している。

『理想と現実と現実』『愛の酷薄』の正門など、「主人公気質」と評される彼にぴったりだ。実直で、優しくて、熱い人。その反面、『銃撃』に見る湿っぽい神経質さも併せ持っている。


(末澤のオタクなので)末澤に関しては後述するとして、問題はこの『大暴力』の主軸となる「不仲なアイドルグループ」のキャラクター設定だ。

正門→高本薫
末澤→榊遊詩
草間→ナットペンドルトン克己
小島→公野景
福本→三城平教祐
佐野→安堂世志輝

この6人がありのままの6人を演じている『これはまだ本番ではない』。
ここは特に本質的な部分を捉えて配役されてるように感じていて、各メンバーの本質が露見しているのに震えあがった。

たとえば、高本の内側で感情を煮詰めまくっている面や、グループ内の均衡を保つために自分を殺す自己犠牲的なナット。自分にしか関心がない自己中心的な公野、あまり関わろうとしないでいる他人行儀な安堂。

そして、榊と三城平の、自己主張の激しさと感情の発露の易さ。
しかもまた、ここ二人が特に表立っていがみ合っているのがなんともリアルだった。


演者自身の関係性を振り返ってみたい。

末澤にとって、福本はメンバーの中で唯一直属の後輩だ。
草間はほとんど同期で、あとのメンバーは後輩だが、グループ結成までほぼ接点はなかった。

中学・高校の学年関係になぞらえれば、一年生に対して二年生の先輩はやけに厳しく、三年生の先輩は優しかったというような話はさほど珍しくないと思う。
これで言えば、末澤と草間が三年生にあたり、福本が二年生、ほかの三人は一年生というような関係性と言えるだろう(入所歴ではなく、あくまで上下関係の比喩だ)。

だから、末澤は福本に対してとても厳しいし、口調も強くなってしまうのだろうと見ている。
しかも前述の通り、福本も末澤と同じく自己主張は激しいタイプだ。自分と似たような性質を持つ後輩だからこそ、余計に気にかかるのかもしれない。


そして福本も、末澤が一番「狂犬」だった時代に同じ現場のバックについたりシンメになったりしていて、正直なところまだ「怖い先輩」という感覚が抜けていないのではないだろうか。

小島、佐野と共にせーやくん好き好き!ムーブをしている場面がよくあるが、小島が末澤に少年性を見出して可愛がったり、佐野が末澤をカリスマと称して憧憬を抱いているのと同じほど、強い好意があるとはあまり感じられない(もちろん敬愛の念があるのはわかっている)。


だから、ここ二人の関係性を見抜いて榊と三城平を対立させている福谷さんが心底恐ろしいのだ。

過去のグレショーでも、メンバーの本質を突いているな、という配役の上手さは何度もあったが、ここまで各メンバーのアイドル性を無視した性質、というか、ある意味でものすごく人間的な部分をフォーカスしたキャラクター設定をしているのが衝撃的だった。



なにを見てこの設定にされたのか。
福谷さんによると、一番参考にしたのはかの有名な正門ゲーム回のAぇちゅーぶらしい。

それを言われれば、なるほどと手鎚を打つより他にない。
そりゃあ榊と三城平を対立させるだろう。


しかし、あれと数本の映像媒体を見ただけで、ここまで芯を食ったキャラクター設定にできるのはさすが、と舌を巻いてしまう。
演出家、脚本家というのは恐ろしい。

福谷さんはこうも書かれていらっしゃる。

この動画を何度も見て、「彼らの腹の底の底にある相関図を浮き彫りにするのが俺の仕事や」と思って、今回のグレショーの稽古に臨んでいました。
なんでそんなことが俺の仕事なのかは全然意味わかりません。
この動画をうがった目で見過ぎて、もう僕には彼らが不仲にしか見えなくなりました。目が腐りました。


多分、福谷さんの目はうがっているのでも腐っているのでもなく、心眼なのであろう。




さて、最後に末澤のオタクらしく末澤のことを書いて終わろうと思う。

末澤誠也演じる榊遊詩の配役が、あまりにも「末澤誠也」で笑ってしまいそうなのはわたしだけだろうか。すえざわくんってそうだよな、と納得するしかないのである。



『タイムマシンで来た二人』
言い訳がましくて自己中心的、自分と自分の周りの人間が幸せに過ごせるならそれでいい、というような利己的な考えが明け透けな榊。
ここに、「とにかく格好をつけていたい」末澤を掛け合わせることで、どうしようもなくて後先考えられない人間像が浮かび上がっている。


『理想と現実と現実』
声質や中性的な顔立ちから女子生徒役をやったのかと思いきや、福谷さん曰く「末澤さんはオスっぽいので、女子生徒をやると逆に面白いかなと。」とのこと。

そう、末澤誠也は(リベラル的表現ではないが)「男(漢)らしい」人間なのだ。仕草も表情の作り方も歩き方だって雄々しい。
本人は「俺Aぇの姫らしいから(笑)」などと言っていたが、それはグループ内でのキャラ付けなのであって、本質としては男らしくありたい(ジェンダーバイアスゴリゴリの表現で申し訳ない)のが彼の本意だろう。
それを見抜いた上でのこの女子生徒役は、演技の振り幅も見ることができた。


『愛の酷薄』については長くなりそうなので別記事にしておく。


(追記)
書きました。
mellowmelon.hatenadiary.com




グレショーのおもしろいところは、さまざまなスタイルの演劇を楽しめることにあるが、オタク的にはメンバーの関係性の変化や演技における葛藤、スキルの向上を見れるという点にもある。

そしてさらに、各演出家さんのフィルターを通したAぇ! groupのメンバーを見ることで、彼らがより多面的に、立体的に見えてくるのだ。
今回はフォーカスされている面がより根底の部分にあるため、好き嫌いははっきり分かれると思う。

わたしはその部分を好ましく思うし、もっと見たい、知りたいと思っているので次回公演以降も楽しみだ。


ひとまずこの記事はここまで。
お読みくださった方がいらっしゃったのなら、ありがとうございました。