はじめに
タイトルで「LGBTQ+当事者」などと仰々しく煽ってみたが、この記事も一個人の感想でしかなく、「性的マイノリティの人間が」というような主語を大きくした話ではない。
ただ、ヘテロセクシャル(異性愛者)の多くとは違った観点で『THE BOY FROM OZ』という作品を見ている部分がある気がするので、敢えてこのような表題にした。
自分のセクシュアリティだからこそ感じたもの。
それをこの記事に綴っていきたいと思う。
自分のセクシュアリティについて
大多数は興味のない話だと思うが、これを前提にしないと如何ともならないため先に記させてほしい。
わたしは出生時の性も、現在の性自認も女のシスジェンダーだ。
恋愛指向はバイロマンティック(男女共に恋愛感情が向く)、性的指向はホモセクシャル(同性のみに性的感情が向く)である。
つまり、平たくいえば恋愛対象は男女にある(性別は区別する)が、性的関心があるのは対女性だけというセクシュアリティ。
もし知らない単語や細かい違いを知りたければ、ここでは触れないため個々人で調べていただきたい。
ただ、恋愛対象は男性にも女性にも向くと言ってはいるものの、その比率は人それぞれ。わたしの場合は女8:男2くらいの割合で、過去の恋愛経験はすべて女性である。
一般的に見ればレズビアンの位置に属するだろう。
まったく興味のないだろう前置きで恐れ入る。
さて、以下から本題に入りたい。
ピーター・アレンと二人の恋人
『THE BOY FROM OZ』の主人公ピーター・アレンは、ジュディ・ガーランドの娘であるライザ・ミネリと結婚。しかし調和が合わずに離婚、その後出会ったグレッグ・コンネルと恋に落ち、彼を人生のパートナーに従えてその後の道を歩んでいく。
この文章だけ読むと、女性との結婚がうまくいかず男性と生涯を共にしたピーターは、ゲイあるいはバイだと思われるかもしれない。
しかしピーターがグレッグを愛したのは、彼が「男性」だったからではない、とわたしは感じている。
ピーターは、グレッグの自信家で勝ち気な性格や、はっきりものを言う姿勢、仕事に真面目な態度……そういった部分に魅力を感じたのだと思うし、人間の根幹的な部分でグレッグのことを愛していたのではないか。
雑誌「週刊朝日」1978年6月16日号内で、ピーターは自身のセクシュアリティについてこの様に語っている。
「私はゲイかって? オヤ マアー、だれもそんなことはきいたことないよ」
「私はひとつのタイプに押しこまれたくない。バイセクシュアルだって、ひとつの類型にすぎない。私は自分を定義したくないのさ」
ピーターは自分自身のことを定義したがらなかった。
非常に横暴だが、敢えてわかりやすく当てはめるとすれば、クエスチョニングに近い指向を持っていると言えるのかもしれない。
ライザが女性だったから愛せなかったわけでも、グレッグが男性だったから愛したわけでもないだろう。
ただ、ライザとの結婚生活が上手くいかなかったのは、ピーターから女性として愛されたいライザの気持ちと、ライザを女性として愛せないピーターの心のせいで双方が噛み合わなかったためだ。
恋人として、夫婦としてではなく、親友やbrother(きょうだい)としての関係を築いていれば、ふたりはもっと長く続いたのだと思う。
実際、終盤で病を患ったピーターにライザは寄り添っている。
愛するひとから自分の求める愛を得られないライザの姿はとても切なく、胸が苦しくなるが、それでも共にあろうとする強かで優しい心を持つ彼女はとても素敵な女性だと感じた。
ジュディ・ガーランドと父親
本作の中で、わたしが初めて観劇したときから毎回痛みを覚える台詞がある。
「なにが人間をダメにするかわかる? 生物学。心は女を求めていても、体は女じゃ満足できない。ハートは男、チンチンは女。こっちは水星こっちは火星」
「今まで散々オカマの星を行ったり来たりしてきたアタシですからね。子どもたちだけが唯一の証拠なの。それでもなにか正しいことをしたという証明」
これは1幕でジュディ・ガーランドがライザとの結婚を決めたピーターに向けて批判するように言った台詞だ。しかし、わたしはいつもまるで自分自身が責められているように感じる。
ジュディはバイセクシャルだ。
この時代、同性を愛する心を持つものは医学的に精神異常であるとされ、差別をされたり電気ショック療法で「矯正」されるなど、不当な扱いを受けていた。
それだけでなく、ジュディは当時のハリウッドが強制する女性的な身体規範などにも苦しめられ、何度も人生のどん底を経験したという。
そんな彼女が唯一「生物学的になにか正しいことをしたという証明」、=世間的にひとりの女性として認められる正しい行い、それが三人の娘の存在だった。
この地球上で文明を発展させている我々人間だって、生物学的に見ればただのヒト科の生命体に過ぎない。
この世の生命体はなにを目的に存在しているのか。
それはすべてのものに共通して言える。「自分の遺伝子を後世に遺すこと」ただそれだけだ。
人間が子をもうけるには、現在の倫理上では異性間で性行為をすることでしか成り立たない。
生殖的にそれが可能であっても、選択的にそれを実行しない(精神的に実行できない)わたしのような人間は、「生物としては出来損ないの不要な存在」なのである。
言葉が強いと感じるだろうか。だがこれは紛れもない事実だ。
同性愛者の人間の多くが一度は考えたことがあると思う。
愛するひととの子どもを持つことができない。
そしてその思いこそが、人間がただの生物であることの揺るぎない証拠だ。
けれどジュディはそれに成功した。
その大切な証拠を、自分と似たようなセクシュアリティのピーターに取られるというジュディが、「さあ、おまえはわたしと同じように生物として正しいことが出来るのか?」と投げかけているように感じる。
わたしは選択的に、生物としての存在意義を放棄した人間だ。
幸か不幸か、現代日本は社会を築いている。生物として認められなくても、人間として認められる余地はまだ残っているのだ。
だからすこしでも社会的に意義のある人間になろうと努めて今日まで生きているのだが、それでもときどきふと「出来損ない」の意識が頭を擡げることがある。
普通に男性と結婚して妊娠できたら、少しは楽に生きられるのだろうか。周囲の結婚や出産を心から祝えるようになるだろうか、と。
それからこれは生物的ではなく情緒的な話だが、自分がひどく親不孝だとも感じるのだ。
カミングアウトしてはいないが、おそらく母親はわたしのセクシュアリティに気づいているし理解もしてくれている。だが父親はそうではない。
父と同じく技術職に就いているわたしを父は認めてくれているし、結婚しろとも彼氏はいるのかとも一度も言われたことはない。
それでも、口には出さないだけで、大切に育ててきた一人娘の子どもを、孫の顔を見たいと思っていることはわかっている。
なにか自分の人生で劇的な出会いがない限り、わたしは娘としてその想いに応えてあげることはできないのだ。
カムしようとも思わない。
過去に一度だけ父が口にしたことがあるのだ。「同性愛は生物としておかしい」と。
これは当然わたしに向けたものではなかったが、当時は高校生くらいで、そのときには自分のセクシュアリティを自覚していた(しなんなら彼女もいた)から、当然のように深く傷ついた。
昨今のLGBTQ+に対する理解の動きについてどう思っているかはわからないし、訊く勇気もないが、ひとの根本的な考え方がそう簡単に変わることがないのは知っている。
どれだけ自分が諦念していようとも、そう簡単にこの問題を切り離すことはできない。
だからジュディの言葉が突き刺さって痛いのだ。
そういえば、ジュディ・ガーランドの父親もゲイだったそうだ。
ジュディ自身もまた、父親にとっての「正しい証明」だったわけである。
そう考えるとこの台詞は、ジュディが自分自身に向けた皮肉だったようにも思える。
ピーター・ウールノーの母親
前述の通り、この時代のゲイ(時代に沿ってこのように表現する)への風当たりはたいへんに強く、理解されることも難しかった。
しかしそんな時代でも、ピーターの母であるマリオン・ウールノーの台詞は息子への愛に溢れた、とてもあたたかいものばかりだ。
2幕序盤、ピーターがグレッグと出会い、恋に落ちたことを母マリオンに伝えるシーンはとても印象的だっだ。
「愛する人ができたんだ!」と報告するピーターに、マリオンは「それは良かったわね。彼女の名前は?」と問いかける。そこでピーターは表情を曇らせ、少し躊躇いがちに「……グレッグ」と男性名を口にする。
それに対しマリオンは、戸惑いを表しつつも「それも……良かったわね!」と温かく祝福するのだ。
このときのピーターの嬉しそうな表情といったらない。
自分の愛する人の存在を、そして自分がグレッグという男性を愛していることを、母親が認めてくれたのだ。
きっとマリオンの中には母親としてのさまざまな葛藤があったはずだ。
それでも息子のセクシュアリティを理解し、容認する心はとてもしなやかで強かだ。観る人にあたたかい希望をもたらす。
もうひとつ、わたしが好きなマリオンの台詞がある。
マリオンがピーターに再婚することを伝えると、そばにいたグレッグが「マリオン、男できたんだ?」と驚きを表す。
それに対しマリオンは冗談めかしてこう言う。
「男を手にできるのはあんたたちだけじゃないのよ。そんなに驚くことないじゃない」
ピーターとグレッグの関係を心から認めているからこそ、この言葉が出てきたのだと思う。
(そしてこのときのグレッグの表情がとてもかわいい)(というかこのシーンのグレッグとピーターは終始楽しそうで二人ともとても愛らしい)
わたしのお気に入りのシーンのひとつだ。
さて、ここまで「この時代は理解が浅く」と何度も綴ってきたが、現代日本ではどうだろう。
当時の彼らよりも社会に受け入れられていると感じ人が多いだろうか。
たしかに、日本でもLGBTQ+の存在はひろく知られるようになってきたし、セクシュアリティによって差別してはならない、さまざまな性的指向を持つ人がいることを理解しよう、という動きが高まってきている。
(政治色が強くなるのは本意ではないので、現与党の主張については省く)
しかし、自分の子どものセクシュアリティが「特別」であることを受け入れるのが難しい親の心理は、今も昔も変わらないだろう。
わたしは自分のセクシュアリティが他の人と違っているとも特別だとも思っていないし、昔からこれが自分の「普通」だと思っている。
対外的に少数派であることを知っているから、世間一般に見れば「違う」という注意を持って生きているだけだ。
だからなにかゲイコミュニティのようなものを持っているわけでもないのだが、身近に同じセクシュアリティの人間はいる。
わたしの知人(女性)が以前に付き合っていた相手は、両親から同性と交際することに理解を得られなかったという。
その親は「男性と結婚しないなら親子の縁を切る」と言い、わたしの知人に対しても「うちの娘を狂わせた犯罪者」と罵ったのだそうだ。
たとえ社会レベルで理解と容認を促すようすすめていても、個人レベルにまで落とすとこのような実情はごまんとある。
わたしも、肉親からでないにしろ「同性愛者なんて精神障害でしょ」と面前で言い捨てられたことがあるほど、個人での捉え方としてはまだまだピーターたちが生きた時代と変わらない人たちが多い。
わたし個人としては、自分のセクシュアリティをすべての人に理解してほしいとは思っていない。
誰だって自分の「普通」と違う人間は異端だと感じるし、そういう者に対して恐怖や嫌悪を抱くのはある種の防衛本能であり、仕方のないことだと思う。
けれどもし、親しい間柄のひとがLGBTQ+当事者だと知ったなら、そのときはライザやマリオンのようにあたたかく受け入れてほしいし、間違っても心ない言葉や態度で傷つけないでほしいと願う。
昨今、BLやGLを扱ったドラマや映画などの作品が増えてきているが、グレッグの言葉を借りればわたしたちLGBTQ+の人間は「映画なんかじゃない」。
現実に、わたしたちは同性を愛したり、こころとからだの性が違ったり、多くのひとを愛したり、愛さなかったりして生きている。
これを読んでくれているのは末澤誠也さんのファンが多いだろうか。
だったら敢えて言おう、「わたしは末澤担のレズビアンだ」。
同じ国で暮らし、同じアイドルを応援している人間にだってLGBTQ+のひとはいる。それだけでも頭の片隅に置いてくれていたら良い、と思いながら、この記事を終わりにしたい。